翌朝、窓から差し込む日の光を浴びて、私と主はほぼ同時に目を覚ました。その日差しがあまりにも眩しくて、私はしばらくの間、目を細めて瞬きを繰り返した。どうやら天気は良好らしい。私はかすかな安堵感を覚えた。
昨日の主とローレンスの会話からすれば、今日は朝からマーケットに買い物に出かけることになる。私はそれを期待して、いまだベネット産のカボチャの種を口にしていなかった。主が、合成素材の目利きは通常のそれとは異なるから、自分の目で品物を見る必要があると言っていたが、カボチャの種の良し悪しだって、果肉のそれとは異なる。どうせ味わうなら、最初の一口は自分で選んだ納得の逸品を頬張りたい――私はそう心に決めていた。
食べ物のことを考えていると、少し小腹がすいているように感じたので、私は寝床から抜け出してテーブルの上に置かれた林檎――昨晩、ローレンスの部屋から失敬してきたものだ――に駆け寄った。そうして、林檎に歯を立てながら、今居る部屋をあらためて見渡す。
主がクランジェルに滞在する間の住居として用意された部屋は、ローレンスの執務室と同じくらいの広さだった。その部屋の北側の壁の端には頑丈そうなテーブルがひとつ置かれている。そして、テーブルの上には、昨晩のうちに主が魔法で館から取り寄せた合成に必要となる機材が所狭しと並べられていた。その中には、一抱えもある真っ黒な鉱石も含まれている。一見しただけではただの黒い塊だったが、主から説明を聞いていた私には、それが希少鉱石イグリアスであることが判った。
私が朝食をとっている間に主はベッドから抜け出すと、部屋の外で清掃に勤しんでいた城の使用人を呼びつけ、昨日までの旅でついた埃や汗を落とすための温湯と着替えを部屋に運ばせた。着替えというのは、もちろん昨晩ローレンスに約束させた衣装のことだった。
ローレンスが用意してくれた服は、濃い青の布地に金色の刺繍が施された、決して派手ではないものの、着る者の階級を一目で知らしめる上等な仕立てだった。侍女の運んできた衣装を手にとった主は、もう少し派手な服はないのかとぼやいていたが、街に買い物に行くのにはちょうど良い服装だろう。普段は地味な格好を好む主だが、この姿になったときにはやけに派手好みになる。外見が変わると人の内面にも影響を及ぼすものなのだろうか? いや、もしかすると“姿写し”の魔法は人の姿形だけでなく性格までも変えてしまうのかもしれない。
湯の入った桶と着替えを運んできた侍女たちは、主の清拭と着替えの手伝いを申し出てきたが、主はひとりでできるとそれを拒み、しばらくしたら桶を取りに来るようにとだけ告げて、全員を部屋から追い出した。そのおかげで、主が手拭いで身体を擦っている間に、私も湯の張られた桶につかり、ゆっくりと旅の汚れと疲れを落とさせてもらうことができた。きっと湯の中を泳ぐ私の姿を侍女が見たら、悲鳴を上げるか、厄介者を追い払うために火掻き棒を振り回すに違いない。館の外にでれば大体の人間は鼠を厄介者扱いすることを私は重々承知していた。
しばらくして身体を洗い終えた主は、用意された服に手際よく袖を通していった。その様子を眺めていた私には、その服がどうやって着るものなのか、いまいちよく判らなかった。布切れを何枚も重ねて羽織り、上と下の服の決められた場所を結んでいく主の作業は、まるで自分を土台にして縫い物をしているようだった。そして、服を着終えた主は、続いて部屋の端にある鏡台の前に座ると、慣れた手つきで長い黒髪を結い上げていく。
静かな部屋の中に、かすかに街の雑踏の音が聞こえてきた。もうしばらくすれば、教会の鐘がひとつ鳴って、街が本格的に活動を開始する。それまでには城を出ようと言って主はせわしく手を動かしていた。
主が身支度を整えている間に、侍女のひとりが使い終わった桶を取りに部屋に入ってきた。私は無用な面倒ごとを避けるために、荷物の影に身を隠した。侍女は部屋を出る前に、あらかた身支度を終えている主を見て問いかけた。
「直ぐお出かけになりますか?」
両腕を頭の後ろに回して髪留めを付けながら主は答えた。「そのつもりだ。あまり時間がないのでね」
「では、街を案内する者を呼びますので、もうしばらくこちらでお待ちください」
「この街は初めてではないし、買い物くらいならひとりで行ける。着替えのこともそうだが、あまり気を使わないでくれ」
人を遠ざけようとする主の言葉に、侍女は少し当惑しているようだった。
「ですが、これはローレンス様からのお言いつけですので……」
その言葉尻には、どうかわがままを言わずに素直に応じてほしいという無言の言葉が続くようだった。
主はやれやれと小さくため息をつくと「では、お言葉に甘えさせてもらうことにするか。荷物持ちが居てくれれば、それはそれで助かるからな」と言って侍女を見送った。
部屋の扉が閉められた後で、主はぼやいた。
「案内……か。本当に案内や荷物持ちなら構わないが、お目付け役なら要らないな。特に所帯を思わせる年上の男はお断りだ」
主は同意を求めるように鏡越しに私の方を見た。私はその視線に気づかぬふりをして、とぼけてみせた。
次に部屋の扉がノックされたとき、すでに主は買い物に出る準備を完全に済ませていた。扉を叩く音に続けて、若い男の声が聞こえてくる。
「お待たせしました。ローレンスさんの指示で街の案内役を仰せつかった者です」
部屋の外から聞こえてきたその予想以上に若い声に、主は意外そうな顔をした。
「どうぞ。鍵は開いている」
主の言葉に促されて扉を開け、拍車の音を鳴らして部屋に入ってきたのは、まだ幼さを残す顔つきをした青年だった。短く切り揃えられた金髪に、深い青色の瞳。それは、典型的なレイフィールド人の容貌である。麻であつらえた淡色のチュニックに身を包み、その上から皮革の上着を羽織っていた。洒落っ気の無い格好で、首に架けたネックレスが唯一のアクセントになっている。青年の腰からは剣が提げられていたが、その剣は新品同様であり、彼自身も戦士としてはまだまだ身体の線が細いようだった。見れば拍車も銀色だった。まだ従騎士の身なのだろう。
「失礼します。案内役を勤めさせていただくミストと申します」
ミストと名乗った青年は折り目正しく一礼してみせた。そして頭を上げて、あらためて主の姿を見て、小さく息を飲んだ。上仕立ての服に身を包み、身繕いした主は、見事な貴婦人に化けていた。それも、その素材は魔法によってもたらされた美貌を備えている。青年の目線が軽く泳いで、床の上に落ち着く。若者らしい、実にわかりやすい反応だった。
「はじめまして、ミスト。今日一日世話になる。わたしはチカだ。それと、こっちは――」
主の視線がテーブルの上にいる私に向けられた。つられて青年の顔がこちらを向く。
「白い……鼠?」
「そう。“幸せを運ぶ白鼠”だ。彼はわたしの友人でハックという」
主に紹介されたので、私は二足立ちすると腰を曲げて、人間式の挨拶でそれに応えた。それを目の当たりにした青年は目を丸くしてみせた。
「こいつ、いま挨拶しましたか?」
「ああ、そうだとも」と主がうなずいてみせる。
「賢いんですね」
「たしかにハックは賢い。だが、彼を鼠扱いしたうえで賢いというわけではない。普通に、わたしたちの基準で賢いんだ。――それよりも、わたしのことについてローレンスから何か聞かされているかな?」
主は青年に歩み寄り、あの深い漆黒の瞳で青年の視線を拾い上げると、その目の奥をじっと覗き込んだ。
「い、いえ。あまり詳しい話は……」
「本当に? たとえローレンスが話していなかったとしても、黒魔法使いチカの名前は聞いたことがあるのだろう? キミが首から提げているのは、女神クローディアの聖印だ。黒魔法使いは教会にとっては目の敵のような存在だろう? 知らないとは思えないのだがね」
「あ……」声を漏らして青年は首飾りを胸元にしまった。
「別に隠す必要はない。それとも、教会から、チカは聖職者をとって食うとでも吹き込まれているのかな?」
青年は素早く頭を振ってそれを否定した。
「す、すみません。別に隠すつもりはなかったんですけど、つい反射的に……。貴女が大魔法使いチカ様だということは伺っています。でも、アンジェリア教会からチカ様を目の敵にするように教えられたことはありません。なにせ、黒魔法使いよりも、原理主義者との対立の方が根強い土地柄ですから」
青年の言った原理主義者というのは、平定戦争時における反レイフィールド王国勢力の残党のことだった。レイフィールド王国は女神クローディアが望んで興した国家ではなかったため、熱心なクローディア信者の中には国家統治に反発する者たちも存在した。現在も“穏健派”を名乗るクローディアの聖域に踏み入ることを反対する者たちの中には、この原理主義者が多く紛れ込んでいると考えられている。そして、そんな者たちの矢面に立っているのが、平定戦争の主戦場であるベネット地方の領主であり、クローディア自治区総督を務めるローレンスというわけだった。
原理主義者にとって、黒魔法使いは完全な敵として認識されていた。つまり、保守的立場にあるアンジェリア教会にとっては敵の敵は味方――ということなのだろう。
青年は少し考えてから「ただ、年寄り連中の中には貴女を恐れている人も居るかもしれません。自分はあまり教会の詳しい内情を知らないんです。教会内にいた期間が短かったもので……」と付け加えた。
「なるほど。それでは、キミはわたしが何者であるかを知りつつも恐れてはいないのだね?」
青年はこくりとうなずいた。
「怖くはないです。その……ローレンスさんから話は聞いていたんですが、想像していた感じと全然違っていたので、少し戸惑ってしまって……」
「ローレンスは何だって?」
「それは……」青年は口篭った。
「言いよどむということは、あまり良い話ではなさそうだな。おおかた、『あの姿は作り物だ。その見かけに騙されるんじゃないぞ』とか、『あいつは自分勝手なやつだから、あまり好き放題させるなよ』とか、そういった感じだったのだろう? まさか、『あの魔女は若者の生き血を吸って若さを保つ吸血鬼だ』なんて嘘を吹き込まれてはいないだろうな?」
ローレンスの口調をわざとらしく真似てみせてから、愛嬌のあるほほえみを浮かべた主を見て、青年も笑った。
「やっぱり、想像していた方とは違いました。それに、ローレンスさんを良くご存知なんですね」
「それはそうさ。何しろ、かれこれ二十年来の付き合いになるのでね」
その言葉を受けて、青年の視線が主の顔に向けられた。それには明らかに、貴女の歳はいくつなんですかという問いかけが含まれていた。それを見透かした主は反対に青年に問いかけた。
「キミも若く見えるが、歳はいくつだ?」
「えっ?」
まさか自分の方が歳を聞かれるとは思っていなかったのか、青年は少し呆けた。
「今年で十八になります」
主はその言葉にうなずくと、青年の頭からつま先までを順に見ていった。
私はぼんやりと主の元使用人であるクラウスの顔を思い浮かべていた。歳は同じくらいだが、クラウスの方が大人びていたように思える。いや、クラウスのそれは若年寄りといった感じだったか。たぶん、このミストという青年の方が年相応なのだろう。
「その格好は私服か?」
「はい。一応、非番ということになっていますので」
なるほど。昨日の今日で街の案内役としてローレンスがあてがえた人材は彼しかいなかったわけだ。私はこの青年が案内役を命じられた理由を察した。
「ふむ。では、買い物に出かける前に――ミスト。その剣は邪魔になるからここに置いていきたまえ」
主の要求に青年が不満の声を上げた。
「それは困ります。何かあったときに貴女をお守りできなくなってしまいます!」
「もともと、わたしは荷物持ちとしてキミに同行してもらうつもりなのだから、問題はない。仮に帯剣していたとしても、両手がふさがっていては、わたしを守るも何もないだろう。それに、キミ一人で振り払える程度の火の粉なら大事には至らないさ。このような姿をしているが、ここ居るのはキミの言うところの大魔法使いチカなのだよ」
主の歯に衣着せぬ物言いに私は目を覆った。これでは、護衛としては役立たずだと断言したようなものだ。案の定、自尊心が傷ついたのか、青年は何も言い返せぬまま目を伏せてしまった。
「それと――街で買い物をする間、キミは決してわたしのことをチカという名前で呼んではいけない。その名で呼ばれると、何かと面倒なことになりかねないからな」
「では、なんとお呼びすれば良いですか?」
「そうだな……マーケットに店を出している者で、キミの顔見知りはいるだろうか?」
「そこまで顔なじみの店はありませんが……」
「そうか。だったら“姉さん”と呼んでもらおう」
「――姉さん!?」青年が戸惑いの声を上げた。
「そう。わたしが姉で、キミが弟というわけだ。年格好を考えればおかしくはないだろう? 地方豪族の娘がクランジェルの都に出てきている弟を訪ねてやってきたということにしよう。キミはわたしにあわせるだけで構わない」
主はそう言って悪戯めいた笑いを浮かべると、困惑する青年の肩に軽く二度手を置いた。
「なあに、難しいことではないさ。しかしだ――もしキミが街中でわたしのことをチカだとばらすようなことがあったら、キミがわたしの仕事の邪魔をしたとローレンスに言いつけておくからな。それだけは、くれぐれも忘れないように」
「え!? そんな!」
「それでは、手早くその腰に下げたものを外してくれ。もうマーケットが始まってしまう。時間が勿体無い」
青年の抗議の声を無視してそう言うと、主は私の方に手を差し出した。
「ハック、行くぞ」
伸ばされた主の腕を伝って、私は何枚も重ねられた主の上着の中へともぐりこんだ。
ちょうどそのとき、頃合を見計らったかのように、窓の外から教会の鐘の音が聞こえてきた。高く澄んだ鐘の音がクランジェルの街に響き渡る。
「ほら、早くしないとあっという間に日が暮れてしまう。時間は有限だぞ」そう言って、主は青年を急かした。
青年は少し困った様子をしていたが、しばらく考えると主の言うことに従った。汚れのない剣を腰ベルトから外して、それをテーブルの上に置く。
「わかりました。では、クランジェルの街を案内します。――姉上」
心を決めたのか、青年の順応性は高かった。
「なるほど。そちらのほうが、らしいな」
主は満足気にうなずくと青年の後に続いて部屋を出た。